紗栄子がその夢を見るようになったのは数ヶ月前の事だった。
夢の中、いるのは紗栄子と男がひとり。
男の顔はよく見えないが、長身ですらりとした体格をしていた。
夢の中で、男と紗栄子は長い道を一緒に歩いていた。
ふと、男が指差した先には湖があり、そしてそこにはひとつの古びたボートが浮いている。
『乗らないか?』
男はそう紗栄子に声をかける。
その声は何処かふわふわした掴みどころのない声だが、夢の中の紗栄子には心地よく響き、男の手を取って紗栄子はボートに乗った。
昼間の湖にはふたりを乗せたボートが浮かんでいるだけで、周りには誰もいない。
やがてボートは湖の中頃に到着し、紗栄子はそこから見える景色をぼんやりと眺めていた。
そっと、男が紗栄子の隣に腰かける。
一緒に同じ風景を見るためだろうと紗栄子は思い、男に向かって微笑みかけようと振り向くが、紗栄子が微笑むことはかなわない。
それより早く、男の両手が紗栄子の首を強く締める。
紗栄子の身体は何かに痺れたように自由が効かず、そのまま男は紗栄子を押し倒しぐいぐいといままで見せたこともないような凶暴さで紗栄子の首を絞め続ける。
やがて、紗栄子は死ぬ⋯⋯死んだと紗栄子は夢の中で意識する。
目を見開き、無残な姿となった紗栄子の身体を男はまるで荷物でも持つように担ぎ上げ、どぼんと湖に沈める。
そのまま紗栄子の身体はゆっくりと湖の底に向かって沈んでいく。
すでに死んでいるにもかかわらず紗栄子はその様子の一部始終を見ており、水面に浮かんだ男の歪んだ顔が遠ざかっていくのを見続けていた。
やがて身体は湖底に到着し、背中に泥の不快な感触を感じながら、紗栄子はようやくそこで目を閉じた。
「⋯⋯そんな夢を、ここしばらく見ているの」
「殺された後もそのまま自分の死体がどうされるかまで見ているのね」
紗栄子の話を聞いていた相手はそう言い、くすりと笑った。
黒髪のその少女は夜だというのに赤い日傘をさしており、白いフリルで縁取られたそれが紗栄子には嫌に印象的だった。
「そのまま夢を見続けていたらあなたはいったい何処までを夢で見るのかしら。小さな魚がきっとあなたの身体を突いたり、底に生えている水草が身体にまとわりついてきたりするのかしら。そしてそのうち身体にガスが溜まって、元が誰かなんてわからないくらい膨らんだ姿になってぷかぷかと浮かぶところまで見るのかしら」
「やめて」
楽しげに想像を膨らませてそんなことを言う少女に、紗栄子は不快さを隠そうともせずにそう言った。
「そんなに嫌な話かしら。だってこれはどうせ夢の話でしょ?」
「夢でも嫌よ。自分が殺される夢を見続けるのだって厭なのに、その死体がどんなになるかまで見るなんて嫌に決まってる」
「そういうものかしら」
くすくす笑いながら少女は紗栄子の顔を覗き込む。
「そんな夢を、ずっと見ているのね」
「⋯⋯ええ」
「自分が殺される夢。相手は男の人。けれど、それが誰かあなたにはわからない」
少女の声が徐々に遠く、まるで夢の中から聞こえてくるような響きに変わっていくことも気づかず紗栄子はその言葉を聞いていた。
「誰かがわからないのなら、きっとそれはあなたの知らない人。まだ出会っていない人。けれどきっとこの先に出会う人に違いないわ。だって、夢で何度も出会ってるんですもの」
まだ見ぬ男。出会ってさえいないのに自分を殺すであろう男の夢。
紗栄子の頭の中にぐるぐると顔のわからない男の姿が、まるで水泡のように浮かんでは消えていく。
「夢は願望の現れの場合があるらしいわね。じゃあ、あなたは殺されたいと願っているのかしら。それともこれは警告かしら」
何度も何度も同じ殺され方をする自分。
場所も同じ、やりとりも同じ、殺され方、その死体の処理も同じ。
まるでその順序を覚えこませようとするように続く夢。
「もし、夢の男の人に出会ったら、あなたはどうするのかしら。どうしたいのかしら。きっとそれがわかればあなたは同じ夢を見ることはなくなる」
そう言うと、くすくすと少女は笑って紗栄子から離れた。
紗栄子は、少女の言葉に対してなにも言わなかった。
けれど、ここしばらく悩まされていた夢の不安がどこか薄まったような気分になった。
それに気づいているように少女はくすりと笑い口を開く。
「それじゃ、良い夢を」
赤い日傘をくるくると回しながら、少女はそのまま立ち去った。
残された紗栄子は、しばらくの間ぼんやりとしていたが、やがてゆるゆると頭を振り、ふらふらとその場を立ち去った。
以来、紗栄子がその夢を見ることはなくなった。
数年後、紗栄子はある男性と出会った。
場所は友人に誘われて行った見合いパーティー。
長身ですらりとした体格のその男性は、笑うとどこか頼りなく見えるが親しみの持てる男だった。
ふたりは気が合い、付き合うようになり、一緒に暮らし始めた。
籍はまだ入れていなかったが、それも時間の問題だろうというほど順調な生活を送っていた。
「ねえ」
ある日、紗栄子は男に向かって話しかけた。
「今度のお休み、旅行をしない?」
紗栄子の提案に男はいいよと答え、ふたりは山へと出かけることにした。
運転は紗栄子がし、行く場所も紗栄子が決めた。
「ここからは歩きましょう」
山の麓で車を停め、ふたりは連れ立って山道を歩き始めた。
「ねえ、あんなところに湖がある」
紗栄子が指差した先には確かに湖があり、ふたりはそちらに向かうことにした。
湖には誰もおらず、ボートがぽつんと置かれていた。
「せっかくだし、乗りましょう」
そう紗栄子がいい、男の手を取るとそのままふたりはボートに乗った。
ボートは静かに進んでいき、やがて湖の中頃に到着した。
「あなた、気持ちがいいわね」
紗栄子の言葉に男はそうだねと微笑んで答えた。
その夫の傍らに座ると、紗栄子は持ってきていた魔法瓶を男に手渡した。
「疲れたでしょ? ここでごはんにしましょう」
男は紗栄子の提案に微笑んで頷き、魔法瓶を受け取るとその中身をカップに入れうまそうに飲み干した。
その様子を、紗栄子は微笑んで見つめていた。
「わたし、わかっていたんです。あの人はきっとわたしをいつか殺すんだって。あの湖で、あのボートの上で。だから、身を守らなきゃと思ったんです。でも、殺される前に殺人で捕まえてくれなんて言っても無駄なのはわかってました。だからわたし決めたんです。殺される前に殺してしまえばいいんだって。そうすれば、わたしは殺されることはない。ねえ、そうでしょう?」
目の前に立っている男に紗栄子は淡々と総話し続けたが、男はもちろんにこりとせず険しい顔で紗栄子を見つめていた。
「そして、あなたは男性に睡眠薬の入った飲み物を飲ませ意識を失わせ、用意していたロープで絞殺。死体を湖に沈めたんですね?」
「ええ、そうです。だって、そうしないと殺されていたのはわたしだったんです、わたしが今頃湖の底に沈んでいたんです」
湖の周辺には大勢の捜査官がおり、ダイバーが湖底を捜索している。
紗栄子の前に立っている刑事は、険しい顔のまま紗栄子の話を聴き終えた後、口を開いた。
「つまり、あなたは自分の身を守るために付き合っていた男性を殺した、そう主張するんですね?」
「ええ」
紗栄子のが答えた後、刑事は更に険しい顔のまま言葉を続けた。
「その主張のために、いったいあなたはこれまでに何人殺したんですか?」
それに応えるように、また見つかったぞというダイバーの声が周辺に響くが、紗栄子ひとりだけは安らいだ表情のまま湖を眺めていた。