人魚を買った男の話

 露店で人魚を買った。
 安くしとくよと言われたのが大半の理由だが、噂に聞く人魚というものを実際に見たことがいままでなかったことと、提示されていた値段がそのとき所持していた財布から消えても生活にそれほど痛手になるというほどでもなかったからということもあったのだろう。
 人魚は美しいと聞いていたが、さて、これはどうなのだろう。
 審美眼というやつが備わっていないと自覚している人間から見ると、その人魚は何処にでも転がっている餓鬼と同じような顔にしか見えなかった。
 水槽を買うのも面倒なので、手近にあった桶にそいつを入れて飼うことにした。
 名前を付けるのも面倒で、適当に「アレ」とか「ソレ」と呼んでいた。

「聞いたよ、人魚を買ったんだって?」
 数少ない友人がたまたま訪ねてきたときにそう聞いてきたので、わたしは億劫に「ああ」と答えた。
「酔狂な真似をしたものだね」
「なに、暇だったのさ」
「そんなに暇だというのなら、ボクの仕事を手伝わないか」
「仕事は御免だ。面倒臭い」
 そんなことを言いながら家の中へと入れ、あれがソレだと桶を指差すと、「ほう」と少し感心したような声をあげた。
「なるほど、人魚だ」
「キミの目には、あれはどう映る?」
「どうとは?」
「どうでもいいことだ。人魚は美しいと聞くが、ボクにはどうも、それがわからない」
 そんな会話をしているこちらに、ソレは青い目を向けていた。
「さて、どうかな。ボクにはそういうのはよくわからなくてね」
「鑑定には煩いと思っていたが」
「ああいうのはボクの専門外だ」
 それきりソレには用が済み、別の部屋で昼から酒を飲んでいた。
 お互い結構な身分だななどと揶揄しながらも、いつもとさほど変わらない会話をして友人は出て行った。

 買ってから、しばらくたった。
 わたしにはいまだにアレを美しいと思う気にはなれなかった。
 特徴があるといえば青い目くらいでそれも人を惑わすと言われるようなものでもなく、顔立ちがことさら整っているようにも、噂に聞く歌声も──
 そこでようやくわたしは思い出した。
 歌声どころか、わたしはソレの声を聞いたことがなかった。
 口を開いたことがないのだ。
 もともとひとり暮らしで無音には慣れており、むしろ無駄なお喋りというものが好きではなかったので気にも留めなかったが、そういえばアレが喋ったところを見たことがない。
「声を失った人魚を買ったというわけか?」
 そう聞いてみたが、ソレはうんともすんとも言わない。
 可愛げがないと少し思ったが、知ったことではないかとあまり深くは考えなかった。
 しかし、こんなものを買って、いったいわたしはどうする気なのだろうか。
 考えれば、コレには餌もやっていない。
 一度も何かを食わせた覚えがない。
 だが、コレは生きている。
 弱っているようにも見えない。
 ならばこのまま餌をやらずとも良いのだろう。多分、そういうことだ。
 そんなことを考えて、それきりまた、しばらくソレのことを忘れていた。

 ふた月ばかりが過ぎた頃だろうか。
 妙な空腹がわたしに襲ってきていた。
 何を食べてもうまいと思えず、しかし常に何かを食べていなければ一時でも治まらない奇妙な飢えだった。
 あまり食に頓着したことがないのだが、食べるもの食べるもの、みな「これが食べたいわけではない」という気持ちにさせ、そのことが一層飢えを助長させた。
 何を食べれば良いのだろう。
 ふ、とそのときに、ここしばらく忘れていたものを思い出した。
 ゆっくりと、台所から持って来た包丁を握って放っておいた桶に近付く。
 アレはいまだにここにいた。
 青い目をしたソレは、わたしに気付くと、にっこりと笑った。
(あら、やっと気付いたの?)
 そんな声を聞いた気がする。
(馬鹿な人ね。買ったものの使い方も聞かなかったなんて)
 ああ、そうだなとわたしは答えたかもしれない。
「お前が教えてくれなかったから悪いのではないか」
(聞かれないことには答えないわよ)
 やはり、こいつは美しくない──少なくとも性格は。
 しかし外見は、初めてわたしはソレを美しいと思った。
 同時に、旨そうだ、とも。
(やっと仕事が果たせるわ)
 ソレはそう言って笑った。
 それは結構なことだ。
 そう思いながら、手に持っていた包丁を振り下ろした。

 飢えは満ちた。
 他のものを食べる気にもならず、わたしは桶の横に座り込み、ずっとそこから動かなかった。
 そして、わたしの口からは絶えず歌が──おそらくアイツの声なのだろう──紡がれ続けていた。