最適の逃げ場所

(畜生、いったい何処でしくじったんだ)
 そうぼやいたところで、ミスは取り返すことなどできはしない。
 逃げるのが精一杯で証拠を完全に消すなどということはしている暇がなかった。
 衣服にも、ところどころ赤黒くなり始めた染みがついている。
 こんなミスはしたことがなかったのに、どうして今日に限って。
 しかし、原因を究明している暇などない。
 それよりも、早く逃げなければ。
 警察からも、追っ手からも。
『仕事』をしくじった者に対して温情などかけてくれるはずがない、そういう組織にいるのだからこうなることは知っていた。
 だが、知っていたからといってそれを黙って受け入れるようなほど馬鹿ではなかった。
 財布の中に入っている金の額を探ろうとしてコートのポケットに手を突っ込むと、まだ先程使ったナイフが残っていた。
 捨ててしまいたかったが、アシがついては困る。
 それに、武器はこれくらいしかないのだ。少しでも身を守ることができるのなら、持っていたほうが良いだろう。
 できるだけ遠くへ、そう思いながら歩を進めた。
 休む余裕などあるわけもなく歩き続けていたが、流石に疲れが出てきた。
 身を潜めるつもりではないが、少しでも追っ手をまける場所を探さなければならない。
 と、ある場所が目に入った。
 裏路地だ。
 こんなもの、さっきはあっただろうか。
 しかし、そんなことは考えている暇はない。
 いまにも足音が聞こえてきそうな気がして、慌ててそこへ入り込むと、疲労のため座り込んだ。
 絶対に、逃げてやる。
 捕まってたまるものか。
 そう思うと、自然とポケットに入っているナイフを握り締めていた。
 だが、しくじったとはいえ仕事を済ませた後と追っ手から逃げる緊張が祟ったのだろうか。
 ほんの少しだけ、意識が、揺らいだ。

「いらっしゃいませ」
 不意に、そんな声が聞こえて飛び起きた途端、目を見開いた。
 さっきまで自分は、路地にいたはずだ。
 なのに、いまいる此処はどうだ。
 古びてはいるが、間違いなく何かの店だ。
(どうなってるんだ?)
 そう思ってから、ようやく声の主に気付き、そちらを向いた。
 薄気味の悪い男だ。
 見た瞬間に、そう感じた。
 銀色の髪は作り物めいている、片目も何処か奇妙だ。
 何よりも醸し出している雰囲気が、普通ではないと思わされた。
 しかし、男はそんな自分の思考など無視したまま、笑みを浮かべてまた口を開いた。
「ようこそ、微睡堂へ。わたくし、店預かりのヨクと申します」
「……微睡堂? ヨクだと?」
 前者は店の名前らしいが、後者はふざけた名前だ。
 通り名かもしれないが、それでも『ヨク』とは。
「まずは、その物騒なものをしまっていただけますか? ここではそのような者は不要です。この店に一度に入れるお客様は通常お一人だけとなっております。お客様を探している方々も、此処には入れません」
 少なくとも追われているという事情を知っているヨクと名乗った男にますます警戒心が沸いたが、そんなものは気にした素振りも見せず、ヨクは「さて」と口を開いた。
「御用件は、なんでしょう」
「用件だぁ?」
「はい、ここへ入ることができたということは、お客様は何か叶えたい願いをお持ちということです。それも、普通の方法では叶えることができない者を」
 まだ理解のできない自分に対して、ヨクは店のことを説明した。
 客の望みを叶える店、それが微睡堂。
 望むままに、どんなものでも叶えるのだという。
 それを聞いたとき、鼻で笑うのを押さえられなかったが、相手が嘘をついているわけでもふざけているわけでもないというのが感じ取れた。
「つまりは、悪魔との取引ってわけか?」
「魂などはいただきません。当店でのお支払は眼です」
「眼だと?」
「ひとつだけです。ですから、まったく眼が見えなくなるというわけではありません」
 眼をひとつ失う代わりに、望みを叶える。
 さしずめ自分の望みといえば、逃げることだ。
 それも、永久に。
「おもしろい、叶えてもらおうじゃねぇか、その望みってやつを」
 本当にそんなことができるなら、眼のひとつくらい失ったところで苦でもない。
 不便になることはわかっているが追われ続ける恐怖よりはずっとマシだ。
「わかりました。永久に、誰にも見つからないところへお連れする。それで構わないでしょうか」
「あぁ、それだけで十分だ」
「畏まりました。では、その願い承ります」
 そう言うと、ヨクはゆっくりと片手をこちらの目に伸ばしてきた。
 そのときになって初めて、奴が手袋を嵌めているということにも気付いた。
 僅かに痛んだ気もするが、気のせいだったのかもしれない。
 呆気ないほど「取引」は済んだ。
「では、お連れ致しましょう。永久に誰にも見つからない場所へと──」
 そう言ったとき、浮かべた笑みは、さっきまでのそれとは違う気がしたが、そう感じたときには目の前が真っ暗になっていた。

 気がつけば、やはり暗い場所にいた。
 何処なのかがさっぱりわからない。
 此処はいったい、何処なんだ? 本当に此処なら奴らから逃げられるのか?
 そのとき、自分の身体に何かが絡み付いていることに気付いた。
 なんだ、これは。
 そう思い、振りほどこうとして、愕然とした。
 身動きが取れない。
 絡み付いているそれは思ったよりも頑丈で、しかも身体も動かすことができない。
 いったい、どうなっているんだ。
 ふと、そのとき、思い出した。
 逃げたいとは言った、見つからない場所へとも言った。
 だが、何処へ逃げたいのか、どういうふうに逃げたいのか、そんなことはひとつも言わなかった。
 しまった、騙された。
 そう思っても、もはや遅いのだろう。
 なんとかして逃げようとして身体をもがこうとしても、絡み付いているそれは微動だにしない。
 と、上のほうから声が聞こえてきた。
「今度の男は、良い花を咲かせてくれるのかね」
「大丈夫だろう、アイツも保証してくれた。なにせ、業が深いらしいからな」
「アイツが業が深いと言うのなら間違いない」
 そう言って、声の主はしわがれた声で笑った。
「おぅ、見ろ。もう色づき始めたぞ」
「これならいい。この色ならば満足できそうだ」
「今年の酒宴は盛り上がるな」
「そうだな」
 意味がわからない会話が上でずっと続いていたが、次の言葉で全てがわかった。
「やはり、桜の花を色づかせるには、業の深い人間に限る」
 桜の花、業の深い人間、桜の木の下には……!?
 いま、自分がいったい何処へ連れて行かれたのか完全にわかった。
 ここは桜の木の下だ。
 そして自分は、花を咲かせるための養分となったのだ。
 つまり、いま、自分は、地面の中にいるのだ。
 冗談じゃない! 確かに見つからないかもしれないが、こんな目に合うなんて聞いていない!
「さて、そろそろ酒の用意をせねばな。みな、待ち侘びておる」
「そうじゃな、今年は良い桜が見れる」
 俺の声などまったく届いていないのか、上にいるふたりは呑気にそう言っていた。
 ふざけるな! 俺を此処から出せ!
 そう、叫んだとき、初めてふたりのうちひとりが愉快そうに笑った声が聞こえた。
「アンタももう諦めな。微睡堂の契約は絶対だ。少なくとも、アンタが言った『望み』だけはアイツは叶えてくれたろう?」
 カカカと笑いながら声は去り、そして俺はひとり残された。
 誰にも見つかることがない、捕まりたくないと思っていた者たちからも逃げ切った代わりに、桜の木に捕らえられて──